川上 敏行 我が師、そして偉大なる心の師
硬組織疾患制御再建学講座 教授 川上 敏行
私は幸せな事に学生時代から現在までに幾多の師に巡り合った。今回はその師についての小文を認め、このコラムへの責としたい。
まず、大学時代に卒業論文から学位論文まで一貫して直接ご指導を戴いた田中一行先生(信州大学名誉教授)である。先生には研究をする上で、知らない事は恥ずかしい事ではない、そのままにせず知っている人に聞く事を教えられた。聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥である。先生からは、ご自身で分からない事については「何処の何先生を訪ねたら?」と的確に指示して戴いた。お陰で研究を進める上で多くの先生方との交流が生まれた。今でもその人脈は研究をする上で極めて有意義である。先生には研究とは何か、そしてその方法を教えて戴いた。併せて人間としての生き方の多くを学んだ。我が人生の師である。現在の私にとって、先生からマンツーマンでご指導を受けた数年間は極めて大きい。
もう一人の師は、小山長雄先生(信州大学名誉教授、故人)である。先生は天皇陛下(昭和天皇)に幾度かご進講をされるほどの大先生であったが、何時までも少年の心を失わず、悪く言えばミーハー的なところもあった。一例を挙げれば当時の国民的アイドル歌手“山口百恵”の大ファンで、いわゆるファンレターを出したことからお付き合いが始まり、彼女の結婚・引退した後には、彼女の自宅にまで招かれるほどの親交を持っていた。私も先生のご自宅を訪れた際などに、百恵ちゃんから贈られたものだけれどと言って幾度かお裾分けを戴いた記憶がある。そんな先生には、「川上君、研究者たるもの足音だけでなく、例え小さな一歩でもその足跡を残さねば!」と学会発表だけでなく必ず論文として公表することの重要性を説いて戴いた。また、研究姿勢につき先生は、奥様の大伯父に当たる山極勝三郎先生(註1)を見習い「研究をする時にはとことんやれ!!」と教えられ、また「物事を見るときは、なるべく良い面をみてやれ!!」と説かれた。これが小山先生から教えられた研究者としての哲学である。先生からは研究に対する姿勢を学ばせて戴いた。私が松本歯科大学に赴任してからは、先生の説かれた“学会発表だけでなく必ず論文として公表すること!”そして“研究をする時にはとことんやれ!”を枝 重夫先生(松本歯科大学名誉教授)の下で、病理学・口腔病理学を、そしてさらに歯科医学について広く学びながら、メリハリをつけ実践したのである。いや、しようとしたのである。
松本歯科大学に赴任してからの四半世紀に亘る私の教育・研究領域はいわゆる病理学、それも口腔領域のそれ、口腔病理学である。山極勝三郎先生は研究領域こそ違うものの、私と同じ病理学の大先達であるとともに、同じ信州人である。そこで、私自身ではその研究姿勢を見習いつつ、また縁あって信州の地で学ぶ学生には腫瘍総論の講義の中で紹介してきた。さて、永く本学の口腔病理学講座に籍をおいていた関係上、基礎講座であるとは言っても他の講座とは異なり、自分の興味のある事項を深く追究することよりも、口腔領域の外科病理の研鑚が必須である事から、研究対象は広くそして浅いものになりがちであった。しかし研究手法は、学生時代から一貫して形態学であった。すなわち、肉眼観察から始まり、組織学、組織化学、免疫組織化学など光学顕微鏡レベルでの観察、電子顕微鏡による微細構造の観察、また最近ではルーチン化した in situ hybridization法による細胞質内における発現遺伝子の可視化を含め、その何れも純形態学的なものであった。従って、病理形態学的な視点からの見方と考え方については充分に養って来た積りであった。
さて、私がBMP(骨形成因子)による異所性骨形成に関心を持ち、骨組織を研究対象にしたのは最近の10余年である。従い骨組織関連の基礎的な知識は今でも乏しい。そんな折、河合達志先生(愛知学院大学教授)の仲立ちにより、BMP研究の大先達MR Urist 先生(註2)と共著論文を著すことが出来た(Clin Orthop 337: 261-266, 1997)。この時の研究論文の最終纏めにおける Urist 先生との議論の中で、病理組織像の見方についての多くを学んだのである。まさに目から鱗である。そしてまたこの時の議論が現在の骨組織に関する私の研究の方向性を定めてくれたと言って過言でない。実際のところ、Urist 先生とは手紙とFaxによる文書のやり取りだけで、Urist 先生からは河合先生と一緒に顔を見せるようにとの手紙を戴いたままになってしまい、直接お会いする事がなかった。そして今ではそれも叶わなくなってしまった。しかし、生前戴いた署名入りのポートレートは教授室に今でも大切に掲げてある。我が偉大なる心の師である。
ここに記した偉大な師を越えることは資質的に無理であろう。しかし、努力次第では師の域に限りなく近づく事は可能である。私はその可能性にチャレンジしてみたいと思っている。
註1:山極勝三郎(1863-1930):湯川秀樹のノーベル賞受賞から23年さかのぼる1926年(大正15年)、医学生理学賞の最終候補の残った二人のうちの一人で、長野県上田市出身の東京帝国大学医学部教授である。留学(1890-1894)したドイツでの恩師・細胞病理学者 Virchowの志を受け、ウサギの耳にコールタールを塗り続け、1915年世界で初めての人工ガンを作る事に成功した。山極を強く推す選考委員もある中、ネズミにゴキブリを食べさせて胃ガンを作ったとするデンマークの Fibiger が決まった。しかし、その20数年後、二人ともこの世を去ってから米国の研究者らの追試によって胃ガンでなかったことが判明。山極の実験はまさに“幻のノーベル賞第一号”(朝日新聞1998年6月14日付け日曜版100人の20世紀)として記憶に刻まれた。この件で懲りたノーベル賞選考委員会は医学の最重要研究課題の1つである「ガン研究」に対し、その後40年の永きに亘りノーベル賞を出す事はなかった。今年は山極の生誕140年に当たる。今秋10月16日には、ネズミのアゾ色素肝ガン・腹水肉腫(吉田肉腫)で名高い吉田富三(1903-1973)の生誕100年と併せて第11回日本消化器関連学会週間(Digestive Disease Week Japan : DDW-Japan 2003)の特別企画として、“山極勝三郎生誕140年&吉田富三生誕100年記念シンポジウム”が大阪において開催される。なお信州では、地元・K製薬のテレビのスポットCM内で、長野県上田市の上田城跡公園にある山極勝三郎の胸像と「癌出来つ意気昂然と二歩三歩」の句碑が紹介されている。
註2:Marshall R Urist(1914-2001):合衆国カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授(整形外科学)、1950年から2001年まで骨研究所を主宰。Bone Morphogenetic Protein(BMP)を発見。この発見により骨誘導の概念が骨形成、骨再生機序の研究に導入され、外科的な骨の再建方法がすっかり変わった。さらに、この骨再生の機構を明らかにしたことのみならず、外傷や骨腫瘍の切除で生じた骨欠損の再建について臨床的対応に明るい未来展望を与えた事などの業績によって、ノーベル賞の候補となられた。現在では彼がBMPの発見者であり、その研究のパイオニアである事は誰も疑わないし、これは衆知の事実となっている。しかし始めの頃は、“Nobody believe him”であり、その後“He has something”と変り、70年代以降では、“Everybody believe him”となったと言う事で、MR Urist にも辛い時代があったのである(岩田:骨代謝研究を支えてきた人々 日骨代謝会誌 11: 225-236, 1993)。