増田 裕次  夢

05.7.6 顎口腔機能制御学講座 教授 増田 裕次

 2008年9月。
「この件に関して承認していただけますか?」
学長の声が聞こえてくる。
 いつものように増穂は大学院研究科委員会に出席していた。この大学に赴任して何回目の研究科委員会だろう?そういえば先月閉幕した北京オリンピックでの日本人の活躍が昨夜テレビで放映されていた。信州に来て2回目の夏のオリンピックが終わっていた。
「こちらが用意した案件は以上です。ほかにご発言がなければ、これを持ちまして第50回研究会委員会を終了いたします。」 皆が席を立ち始める。
 窓の外にそびえる北アルプスに雪はない。間もなく大学院教授になって4回目の初雪をみることになるのであろう。
 増穂は少し焦っていた。この4年間を振り返ると、研究チーム作りは順調に進んでいるものの、これといったデータを得ることができていないことに。咀嚼運動の神経制御機構について、動物を用いての実験。大学院生の学位取得に十分なデータは得られているが、学会に問題を投げかけるほどのものではない。現在のプロジェクトが成功すれば……。
 
「先生、大脳皮質に関するDiscussion、これで十分でしょうか?」
「大脳皮質の役割について、運動の左右差だけでなくて、咀嚼の継続性についてもう少し具体的に書いてみたらどうやろか」
 研究室に戻ると、学位論文を作成中の大学院4年生 藤原が話しかけてきた。松本歯科大学卒業後、1年の臨床研修を経て、増穂の指導する大学院生、第1号として研究に参加している。当初、活字を読むことが嫌いで、考えることを苦手としていた彼も増穂と対等にデータをDiscussionするほどに成長していた。現在、増穂の研究チームには藤原のほか3名の大学院生がいる。また、このチームを支えているのは松本歯科大学大学院1期生で学位取得後も、研究を続けている金沢である。藤原の2年先輩に当たる。
 
「既成概念を払拭して、新たな手法の開発をしないと、これ以上前に進みませんよ」
週に一度の研究ミーティングで、博士号取得直後の金沢の発言があったのが、2年前。藤原の実験データを検討したあと、今後の進展について雑談していたときである。
「咀嚼中の脳の活動がその場で見えるとかどうでしょうね。」
そのとき大学院1年生の葉山が言う。
「お前は何も知らんから。夢みたいなことを。そんなことができたら、誰かがやってるやろ。無理やと思うでぇ。」増穂が返す。
「誰もやってないなら、挑戦してみましょうよ。」紅一点、アメリカで研究の経験を持つ真美子が身を乗り出す。
「近赤外光を用いて動物の周りにあらゆる方向から出すってのはどうですか。反射光で脳の活動が見れませんかね。」金沢が具体性を持たせてきた。
「面白そうですね。でも、不可能ですよ。僕たちには装置を作れないですもん。」と藤原。
「先生のネットワークを利用すれば、装置作りも可能かも知れないわよ。」と真美子。
「先生が腰を上げてくれれば、僕らはやりますよ。例え無理と思える挑戦でも。」金沢が全員を代表しての決意表明である。
 増穂は若いみんなの意欲に押され気味である。いま、こんな話題を熱く話せる研究チームに満足していた。20年余り神経生理学の研究を続けてきた増穂自身、何度となく思ったことのある話である。しかし、夢として終わっていた。
「よしわかった。お前らの熱い気持ちを無駄にしないように俺も腰を上げるわ。ただし、このプロジェクト、一筋縄で行くとは思うなよ。」
「わくわくしますよ。先生はいつも実験には『わくわくして臨め』って言ってたじゃないですか。」
 それから、増穂はこの地に来てから、知り合った塩尻市商工課、県の研究所、種々の企業や信州大学工学部などを回り装置の具現化に奔走していた。若いスタッフの気持ちが乗り移ったように。

 藤原とのDiscussionの途中に、電話が鳴った。
「先生、実験室に来てください。金沢さんが是非先生に来てほしいって言ってます。面白いものが見れますよ。」現在大学院1年生の高野が興奮した様子で話した。
藤原とともに実験室に駆けつけた。
金沢が満面の笑みで迎えてくれた。
「じゃ、スイッチを入れますよ。モニターを見てくださいね。」
真美子が装置のスイッチを入れた。
「素晴らしい!! 咀嚼野の活動が見えるやないか。」
「反射光のセンサーに工夫をしてみたのです。葉山と高野のアイデアですよ。」

 その夜、増穂はひとりでグラスを傾けていた。
まだ、今日の成功は第一歩を踏み出したに過ぎない。でも、大学院生たち若いスタッフの意欲と工夫が不可能を可能にするかも知れない。
 ここ信州でもっといい夢が見れそうである。

(コラム投稿に際し、休日の午後に、戯れの文章を書いてみました。駄文にお付き合いいただき有り難うございました。)