太田 紀雄  祖父の作った黄楊(つげ)の木の木床総義歯

05.5.16 健康増進口腔科学講座 教授 太田 紀雄

 私の祖父は徳川安政期に生まれ、明治初期から歯科医(検定)として、歯科医業に携わっていた。父の歯科医学専門学校在学中に没した。(大正11年6月,68才)その祖父の製作した黄楊(つげ)の木の木床義歯(明治初期の頃)を所蔵しているのでそれらについて語る。

 木床義歯(もくしょうぎし)wooden plate denture, 入歯(いれば)wooden denture もしくは木彫義歯 wooden-carved wooden denture は、義歯の材料に木(黄楊(つげ),梅,黒柿)を用いて、義歯床と人工歯をノミや彫刻刀等で削って(木彫)作ったものである。

 義歯の維持法は、木の床部を顎堤粘膜に密着させ、人工歯を上下咬合させる方法で、これは大変精巧に出来ており、実用性が高く、現代の総義歯学の理論とほとんど同じレベルの高いものであると考えられている。

 木床義歯の起原は不明であるが、その技術は顎の印象に使う蜜蝋が7世紀に仏教とともに渡来し、その仏像の鋳造時の鋳型用に用いられたことや、仏像彫刻用のノミ等の器具が開発され、木彫仏が盛んに、大発展した平安朝の時期と一致している。さらに、この頃の僧侶やその関係者の使用した義歯が数多く発見されていることから、仏師によって始まったものと考えられている。

 江戸時代に入ると、仏師にかわり入歯師(専業者)ができ、一般庶民に広く普及した。わが国最古の木床義歯は1538(天文7年)尼僧仏姫(ほとけひめ)(和歌山市願成寺)の用いた上顎、黄楊(つげ)の木で作られたものがある。明治に入ってゴム床(1855年アメリカ.グッデーヤは蒸和ゴムで作る)の義歯が製作されるようになってから衰退した。(尚、木床義歯は明治30年頃まで作られた。)1600(延宝元)年、1700(天明6年)頃のものが多数残っている。

 ヨーロッパでは、近代歯科学の鼻祖といわれ、総義歯の創始者であるJoan Pierre Fauchard(1690-1761)の金属枠の義歯があるが実用性に乏しく、木床義歯の実用化はアメリカのGardette, J. 1800年頃に入ってからである。このことから有床義歯の発祥の地は日本であり、我国の本床義歯の技術力や理論はヨーロッパより数百年も数段と進歩していたと考えられている。このことから物作りの精神や技術が現在の我国のそれに通底していることが伺われる。

写真の(祖父の製作した)上顎木床義歯(明治初期、黄楊)について触れてみる。
1. 特徴:形態は写真の通り、現在の義歯と同じで、非常にコンパクトでそれよりシンプルである。
重量:5.4g、(学生実習時のレジン床義歯18.6g)サイズ長さ×幅:44.7×59.5、床厚さ:1.1〜1.5㎜である。
2. 当時としては非常に実用度の高いもので、黄楊の木の性質上、耐水性で非常に軽く、固く、適合性がよく、丈夫で耐久性に富んでいた。最大の利点は短時間に作製でき、コストがかからないことである。
3. 木床義歯の粘膜面は大変精巧に作られており、適合性に富んでいる。
4. 臼歯部の咬合面は正確に対合歯の咬合面が彫刻されている。

 次に我国で歯科医療を担当していた歯科医師等の起原について文献を見る。平安朝(794-1184)頃から仏師が行っていたとされるが、詳しくは定かではない。江戸初期の時代に入ると、仏師に代わって入歯師が誕生した。この頃から官職として朝廷,幕府,藩に召抱えられていた口中医(口科医,歯医師)が存在する。(丹波兼康が伝えられている)歯科治療の内容は、歯,口唇,舌,咽喉等で入歯は作らなかった。「医教正意」(1679:延宝7年)では俗に歯薬師とも言われた。

 口中医が文献上に最初に記述されるのは「京羽二重大王」(1685:貞享2年)で、諸師の項上に朝廷の医官として新康喜安の記載がある。又、「江戸鹿子、(1687:貞享4年)の諸師の項に幕府の医官(歯医師)として兼康安兼の名があり、入歯師は諸職名匠諸商人の項に記載されている。入歯を作る専業者は口中入歯師とも称した。

 これらの一族や一門が下野して一般庶民の治療にあたっていたと推測される。江戸中期以後は口中医も入歯を作る様になった。又、入歯師で口中治療の兼業者が出て歯医者と称した。(口中医と区別した。)入歯師は営業形態が大道,旅商,定住,店舗,家中,口中型に分類されていた。

 小野玄入(江戸日本橋で開業:1658年頃?)は、はいしゃと自称した。中陵慢録:(1826:文政9年)又、入歯師は根付師,香具師(やし)の分類にも入り、口中入歯師,歯抜,入歯渡世者等とも称され、1885年(明治18年)の入歯抜歯口中治療営業者の法律につながっている。

 この様に我国の歯科治療は口中医,口科医,歯医師,入歯師,歯抜などが行い、医師の範疇から香具師(やし)の類まであった。この江戸初期に誕生した入歯師は、独自の高度な技術を数世紀にもわたって伝承、発展してきた。これは特異な存在であった。が、しかし皮肉なことに我国の近代歯科学はこれらの人達でなく、まったく新しい人達によって発展したのである。それはアメリカ人イーストレーキ(1860,万延元年)歯科医師が横浜で歯科医院を開業したことが出発点とされている。これらの外国人歯科医の元で新しい歯学を修得した人や、自ら外国に留学し歯科医術を修得した歯科医が国から免許を受けて、その人達によって急速に発展したのである。

 1874年(明治7年)の医制で、口中科が眼科や産科と併記され、翌年1875年(明治8年)小幡英之助が歯科の科目で受験し、歯科の名称が生まれ、歯科医として認められた。1883年(明治16年)歯科試験科目が定められ、歯科医師(検定試験)が誕生した。検定試験を受けない従来からの歯科医療従事者(業者)に対して、1885年(明治18年)内務省の入歯・歯抜・口中治療・接骨営業者取締り、同年東京の従来入歯抜歯口中治療接骨営業取締規則によって、従来者は府県の鑑札を受けて営業をしなければならなくなった。この従来からの歯科治療従事者を入歯抜歯口中治療営業者という。

 明治39年(1906年)歯科医師法第48号が制定され、歯科医師検定試験合格者と歯科医学専門学校卒業者(無試験)が近代の歯科医療を担う時代に入った。しかし従来家は大正末まで存在したが、明治後期まで我国の歯科医療の需要のかなりの部分を担っていたことは間違いない事実である。

 以上、木床義歯関連について駄文を重ねましたが、お役に立つかどうかはわかりませんが皆様の話しの種にでもなれば幸いです。

文献
1) 新歯学大辞典(1986)永末書店,1986,京都.
2) 神津文雄(1991)民族への旅・歯の神様,銀河書店,長野.
3) 青嶋攻(1973)これだけはぜひ知って欲しい,歯科のあゆみ,ABC企画,東京.
4) 川上為次郎(1931)歯科医学史,金原商店,東京.

写真『木床義歯(上顎総義歯,黄楊材,江戸−明治,秀重)』

左:【正面】 中央:【咬合部】 右:【粘膜面】