藤村 節夫  信州断想

健康増進口腔科学講座 教授 藤村 節夫

 信州松本に育ちかつ長年住んできたので安筑平(あんちくだいら)、(安曇平と筑摩平の合成語)の風土記的なものを綴ってみようと思う。単純なお国自慢になったらご愛嬌とお笑い頂きたい。「風土」というとまず天気・気象のことが頭に浮かぶあたりが凡人の凡人たる所以であるがご勘弁のほどを。
 
 今年(平成15年)1月7日松本の最低気温は-12.4℃であった。前日も-10.0℃、8日も-11.2℃まで下がり冷え込んだ。地球温暖化が言われ実際われわれもそれを確かに実感しているのだが、それでもこのように寒い日は結構寒い。もっともこの位の寒さは東北、北海道へ行けば当たり前か序の口程度であろう。因みに松本での観測史上の最低気温は昭和29年1月27日の-20.7℃である。子供の時分近所の子と銭湯から上がって濡れたタオルをぶら下げて帰ると寒さでかちかちに凍るのでこれを剣に見立ててチャンバラをやって遊んだものだった。その当時はまだ一般家庭にはストーブなど普及しておらず、暖房といえば炬燵と火鉢くらいなものしかなく、あれでよく寒さに耐えられたものだと今更不思議に思う。そういえば信州の方言を巧みに取り入れた旧制松本高等学校の学生歌に『来ましょ信州の雪国へ、寒けりゃ炬燵があるだんね』というコミカルな文句もあったそうである(「ましょ」は軽い命令あるいは勧誘の意を表す助動詞)。暖かい方面から来ている学生にとってはこの寒さは相当応えるようである。「空気までが凍って固まってしまったみたいだ」、「ただの寒さじゃない、刺すような寒さだ」、「こんな寒い所では過ごせそうにない」などという。確かにそうだろうとも思う、しかし酔余の夜半の星辰の瞬きの物凄さに自然の悠久と須臾の人生を若き胸に感じるのも信州に澄み切った厳冬の夜があったればこそではないか。

 冬に較べ夏の気候の良さは格別である。冬の寒気を恐れた学生も信州の夏を賞賛して止まない。日中は確かに気温は上がる。記録によれば昨年夏の最高気温は8月29日の35.4℃で続いて7月31日が35.3℃、7月26日が35.1℃と36℃には及ばないもののまず第一級の暑さである。(なお松本の最高気温の記録は昭和17年8月2日の38.5℃である)。暑いは暑いが湿気が少ないので凌ぎやすいし、8時も過ぎて辺りが暗くなると気温は急に下がり大変心地が良い。寝るときは薄い布団の一枚も掛けなければ寒さを感じる。早朝の気温は大抵21℃~23℃で高原の朝のようで実に爽やかである。
 
 長野県には「県歌」というものがある。それ自体別に珍しいことではないが、ほとんどの県歌というものは「あるにはあるらしいが、歌ったことも聞いたこともない」という程度であろう。すなわち官製であって県民に定着しているとはいえない存在でしかない。しかし長野県のは違う。それは「信濃の国」といい、やれ学校の同窓会だ、長野県人会だ、郷友会だというと会の終わりに必ずといってよいほど歌われる。筆者も小、中学校の運動会などの行事では閉会式で歌わされたものである。信州人なら間違いなくこの歌を知っており、歌詞を知らないなどという不心得者はまずいない。親しみやすいメロディーなので子供でもすぐ覚えてしまう。しかし途中転調もあり、歌詞は文語体で内容は難しい。全部で6番まであり歌い終わるまでに10分以上かかる長い歌である。子供の頃は歌の意味がほとんど分らずに歌っていたと思う。今でも思い出すが3番の「加之(しか)のみならず桑採りて」は「『鹿』を捕るだけではなく桑も作って」のことだと思い込んでいた。いずれにしても「信濃の国は十州に 境連ぬる国にして」と始まって延々続いて最後の「古来山河の秀でたる 国には偉人のあるならい」まで来るとやっと終わったという思いがしたものだった。この歌は実は長野師範学校(旧制の教師養成学校、現在の信州大学教育学部)の校歌で卒業生が赴任先の学校でこれを広めたので県下に普及したといわれている。中身はそれこそお国自慢そのもので、山岳(御岳山、乗鞍岳、駒ヶ岳、浅間山)、河川・湖(犀川、千曲川、木曽川、天竜川、諏訪湖)、産業(養蚕、林業)、名所(寝覚の床、木曽の桟、久米路峡、筑摩の湯=浅間温泉、姨捨山)、偉人(木曽義仲―この人物が偉人だというのには抵抗感がある―、仁科五郎信盛、太宰春台―未だに私の知らない人―、佐久間象山)などの紹介である。歌の文句やメロディーのことはさておいても、長野県人が集まるとなにかにつけて「信濃の国」を歌いたがるということが信州人の特長を露わにしていると思う。いい意味では郷土愛の強さ、悪くいえば山国根性、排他的ともいえるかも知れない。しかしこの歌を歌っているときはやはり「自分は信州人なんだなぁ」とその思いを新たにするというのは筆者だけでなく、信州人の皆がいうことではある。
 
 今では誰もそんなことはいわないが、ひところ長野県は教育県であることがほぼ人口に膾炙していた。そういう伝統があったことは確かだ。事実開智学校(現松本市立開智小学校)が設立されたのは明治6年(1873年)で非常に早い。しかもその資金の多くは松本の一般の人々の寄進によるものだったという。今その校舎は国の重要文化財として保存、公開されているが、和洋折衷の建築様式で玄関の唐様の破風に天使が雲から降り立つような意匠が施されている。これを「日本一派手な小学校」と評する建築学者もいる。また松本深志高校(前身は旧制松本中学校)は1876年 (明治9年)の創立で現校舎は1935年に建て直されたものであるが旧制中学にしては贅沢なカレッジゴシック様式の3階建てで、何でも最近国の有形文化財に指定されたと聞く。こんなことからも(所詮「箱もの」に過ぎないのだが)かつては教育にはお金をかけるという姿勢があったといえよう。しかし立派な入れ物の学校が早く造られたなどというよりも筆者が実際に何かで読んだエピソードの方がよほど信州人の学問好きというか、向学心のようなものを示していると思う。ある文人が山間の今でいえば民宿のような小さな宿屋に泊まったとき、風呂が沸いたから入れというので五右衛門風呂のような粗末な風呂に浸かっていたら、おばあさんが釜の前で火加減を見ながら何かしきりに本を読んでいる。よく見るとそれは岩波の月刊誌の「世界」だったという。少しでき過ぎた話のようでもあるが、あって然りという感じもする。そもそも信州人が教育に熱心だったのは、山国で耕地面積が少なくかつ寒冷な条件下でいかに米の生産性を上げるかが切実な課題であった。それでいろいろ議論したり工夫しなければならなかったことが一つの理由であるという。少々押しつけがましい感もするがそうかなとも思う。そういえば昔行われていた反当りの米生産量のコンテストで優秀な成績を修めるのは決まって信州人であった。
 
 終わりに私事にわたることで恐縮であるが繰り言を一つ。巡り巡って私は今年耳順とか華甲という年齢を迎える。もとより「まだ若い」などとは思わないがさりとて「もう老人だ」とはさらに思わない。10代のときは20歳の大人になることが、20代では30歳のおじさんになることが、30代では40歳の中年おやじに、40代では50歳の熟年にこの自分がなるのだということがどうしても受け入れられなかった。そして今60歳に直面すると次は70歳の本当の老人になるのだとはこれまた実感が湧かず愚かで果敢ない繰り返しの沙汰を味わっている。このところ記憶力は確実に落ちたし、新しい知見を取り込むのも億劫になってきた。しかしここでまた気合を入れ直して大学院に来られる人にはささやかではあるが私の知る限りのパスツール、コッホ、北里柴三郎、フレミング、レーダーバーグ等の細菌学泰斗の偉業を伝えたいと思っている。