(2021.10.20)中道裕子 米国ノースカロライナ大学チャペルヒル校留学記

(2021.10.20)硬組織疾患制御再建学講座 講師 中道裕子

老若男女問わず、海外へ思い切って飛び込んでみて下さい。何にも代えがたい素晴らしい経験、生涯続くであろう交友関係の構築が出来、さらには、自分の新たな可能性を見つけることがきっと出来ます。

まず、留学に至るまでの私の生い立ちについて記します。

私は名古屋で生まれ、隣の春日井市の公団ニュータウンで1歳から7歳まで過ごし、小学校は公立計3校(春日井、横浜、大津)に通い、中学校は公立計2校(大津、横浜)、高校時代は転校こそしていませんが引っ越し(横浜→平塚→町田)を経験し、父の仕事の関係で多感な時期に引っ越し・転校を繰り返してきました。また、学部時代、大学院修士、博士課程、博士取得後から現在まで、それぞれ異なる研究室に所属し、それぞれが理学系、農学系、歯学系とバックグラウンドが違う研究室で修練を積んできたので、自分は、環境変化にはかなり耐性があり、打たれ強いほうだと自負しています。しかし今から見れば、これは日本の教育システムの中に納まった狭い経験だったと思います。現在、塩尻在住歴が18年になり、塩尻が人生で一番長く住んでいる場所となりました。

海外留学については、中学時代(横浜)の友人の影響で漠然とした憧れはありました。中学時代の隣家には同級生の帰国子女の友人が住んでおり、そのご家族は非常に国際的で外国からの客人を招いてよくパーティーを開催し、私を何回も招待してくれました。しかし中学生当時の私は外国人とコミュニケーションがうまく取れず、友人が私の言葉を通訳するような始末でした。その友人への強い憧れのため、英語学習意欲が上がり、中学時代からラジオ英会話などで英語の勉強を繰り返し、きちんとネイティブに通じる英語を話したいと思い、発音練習も繰り返してきました。その後三十云年も経ち2年間の留学を経た現在では、どんなに複雑なことでも自分の思考を正確に英語で書くことが出来るまでに、自信がつきました。しかし現在でも、話す、聞くことについて自由に出来るとは言い難い状況です。

さて、実際に私が海外留学したのは、2017年9月から2019年9月の40代半ばになってからです。私は留学体験の素晴らしさを諸先輩、友人から聞きました。また、留学経験をポジティブに語る人もネガティブに語る人からも、「留学は博打だ」とか、「ボスとの相性が重要」、「食べ物も合わず、言葉や習慣も違い、治安や環境が良いところに住むにはお金がすごくかかる」などの不安材料となる意見(今ではこれは事実だと実感しています)も聞きました。そこで、臆病で用心深い性格の私は、外国における2年分の経済的基盤だけは確保して、ボスに怯えずに安心して留学したい、と考えるようになってしまい、留学に二の足を踏んでしまったのです。

そんな中、ラッキーなことに上記の懸念を完璧に払しょく出来る新しい研究種目「国際共同研究基金(国際共同研究強化)」の募集が、2015年9月に始まることを知り、応募したところ2016年1月27日に内定を頂くことが出来ました。この研究費は、海外における家賃と研究費合計1120万円まで直接経費としてサポートしてくれて、かつ日本国内の所属研究機関への間接経費も通常の科研費と同様に支払われる素晴らしいシステムです。この種目の規定により、2017年3月末日までに留学先を決定し、交付申請しなければなりませんでした。私は、学会ですら会ったこともない研究者のもとへ留学しました。もともと、留学したいラボはその論文内容から決めていて、そこに留学する前提の研究内容で国際共同研究基金に応募しました。

しかし、ここでも臆病虫が現れてしまい、2016年秋にようやく希望ラボに連絡を取ったところ、そのラボはボスが大病を患い閉鎖準備中だったので、あっさり断られました。そのラボの研究内容に強い関心と尊敬があったので、そのラボ出身で独立したお弟子さん達に当たる作戦に切り替えました。まず、当時トロント大学で教授になったばかりのまだ40代前半のお弟子さん①にメールで連絡を取り、2016年12月終わりにSkype面接までたどり着けました。しかし、研究計画も文書で送ったのに、その後音沙汰なし、でした。もう時間が無いのでとても焦りました。

次に、当時ノースカロライナ大学チャペルヒル校(UNC-CH)で准教授になったばかりのさらに若いお弟子さん②であるBen Major先生のラボに挑戦することにしました。

2018年5月 Major先生のご自宅でのポスドクの送別会(右端が筆者)

そして2017年1月初めにメールでコンタクトを取り、Skype面接しました。お弟子さん①の時の失敗経験から、面接で話す内容も修正して取り組みました。その甲斐もあって、Skype面接はだいぶ感触が良かったです。しかし、Major先生から、「今某大学から教授職のオファーが来ていて異動するかもしれないので、そうなった場合、2017年の11月頃までは私のところに来ることは出来ません。それでもいいならまた連絡をください。もし私がUNC-CHにとどまることが決まった場合、job interviewでラボメンバーがあなたを受け入れてくれたなら、ここですぐに研究出来るよ」と言われてしまったのです。交付申請期限3/31まで日がないので、本当に焦りました。それでも私は意気込みを示すために、その後頻繁にMajor先生へメールを送りました。そして、すぐに某大学への異動の話は、トランプ政権への移行の影響もあり、無くなったことがわかりました。そこで、私は「3月末にフロリダで学会発表をするので、それが終わった後Majorラボでjob interviewをお願いしたい」と申し込みをしました。

こうして、交付申請期限の3/31にjob interviewを行い、初めてBen Major先生に直接お会いしました。交付申請は、受け入れが決まったことにしてアメリカ訪問中に行いました。job interviewは本当に緊張しました。自分の研究発表をラボ全員と隣ラボの教授の前で行ったばかりか、希望者やボスに指名されたポスドクや大学院生の研究発表を聞きその後の討論を一日中、1対1でしなければならないのです。ちなみにMajorラボはそれまでアジア人(というかアジア育ち)が一人もいなかったので、全員日本人の英語には慣れていませんでした。このラボメンバーの中で一人でも受け入れに難色を示す人がいれば、「はい、さようなら」の世界なのです。すぐには、OKの返事がもらえず、また意気込みを示すメールをMajor先生に2回ほど送り、受け入れ許可がもらえたのはそれから1週間後でした。こうして、綱渡りで留学先を決定することが出来ました。

何はともあれ、①英語の拙さを気にせず、しつこく意気込みを積極的にアピールすること、および②job interviewにおいてラボメンバーへ研究内容への積極的関心を示し建設的な意見が言えること、が重要だと思います。Major先生に初めてお会いした時に、私はMajor先生より年上なので「あなたは、シニアだから、このラボにおいても、独立していなければならない。そして、技術や知識でラボに貢献し、他の人に教える立場じゃないといけない」と言われました。なので、job interviewではMajor先生の言葉を意識してラボメンバーと面談したのです。若手だったら、そんなこと言われないと思いますので、留学するには若い方が有利かもしれません。でも、若手は資金の獲得が難しいので、どっちもどっちだと思います。今となってはいい思い出です。しかし、みなさんには時間に余裕をもって行動し、私の真似をしないようお薦めいたします。

2019年9月 筆者の送別会 同じアパートの住人

留学のすすめを書いていて、研究室決定までのタフさを書いているだけでとても長くなってしまい、本題の研究の実際まで辿り着けませんでした。留学が充実していたかどうかは、90%人と人のつながりで決まると思います。特にボスが、ラボメンバーや自分をどのように扱うか、ボスの対応の早さ、ボスの器と魅力が大きいかは超重要なファクターです。自分とMajor先生は両方とも論理型タイプの人間なので、非常にやりやすかったです。そして以下の7項目①ボスの良いところは真似をする、②ボスに依頼されたことは速攻でやる、③ラボのイベント(BBQ、クリスマス会など)に積極的に参加する、④にこにこ元気よく挨拶する、⑤元気よくお礼を言う、⑥責任感をもってラボのメンテナンス(ルーチン共用試薬の管理、共用実験装置の管理や故障時の対応)に関わる、⑦誰にでも分け隔てなく正々堂々と接する、を心がけていれば楽しい留学生活になるでしょう。こうして人間関係も研究も軌道に乗ったように思えた頃に、2年間の留学は終わりを迎えてしまいました。

私の留学先は、アメリカどころか世界レベルでも指折りの学術研究都市(リサーチトライアングル)だったので、日本人は多く、日本人会の交流も楽しみました。

私の場合、留学先との共同研究はまだ半ばで、今後も続いていきます。今でもMajor先生やラボメンバーと週に1回Zoomで会って近況を報告しあって、コロナ禍の中お互い励ましあって生きています。言葉も通じず、衣食住、交通ルールや道路の構造も違う異国での暮らしにおいて、生存の危機を感じるようなストレスを受けることもありました。こうした負荷を経験することで、人としても研究者としても成長させてもらえたと思っています。

2019年5月 チャペルヒル・ダーラムにて日本人会春のピクニック