教員コラム 「研究も心・技・体?」

06.4.18 硬組織疾患制御再建学講座 助教授 小林 泰浩

 トリノオリンピックで女子フィギュアの荒川選手が日本人として、史上初の金メダルを獲得した。荒川選手の演技は会場で見ていた人やテレビを通してみていた多くの人に感動を与えた。後にインタビューで彼女は非常に興味深いことを語っていた。彼女の数分の演技は選曲から演技の1つ1つが細かく計算されつくされていたそうである。しかも、彼女は演技中も計算していたというのです。その計算は、いかにいい点を取るかではなく、観衆にいかに多くの感動を与えられるかに焦点を絞っており、得点は二の次だったそうである。自分らしさを表現したくて採点対象とならないイナバウアーの演技をプログラムに入れたそうである。また、演技前、他の選手に対する観衆の声援を聞かないようにヘッドホンで音楽を聞いて平常心を保っていたそうである。スポーツ選手が目標に向かって挑む姿は、多くの人に感動を与えるものである。
 
 最近、私はある論文に出会い、非常に感動した。その論文は見事な実験を駆使し、今までにない仮説を明確に証明していたのである。毎朝コンピュータを起動し、データべースにアクセスする。自分がフォローしている分野のキーワードを入力すると、新たに公表された論文リストがずらっと並ぶ。このように毎日おびただしい数の研究成果が、印刷・公表されている。しかし、感動を与えてくれる論文に出会える機会は、なかなかない。この論文を読んでいるときに、学生時代の剣道部の友人との会話が、ふと思い出された。
 
 剣道の試合を観戦していた時のことである。なぜ今の技は竹刀が相手の面にあたったのに、1本ではないのか?と剣道部の友人に聞いたことがある。友人曰く、ただ竹刀が面にあたっても1本にはならず、心(気迫)と技と体(姿勢)が一致しないと1本とはみなされないとのことであった。

 剣道と同じように研究も心・技・体が一致して、初めて読者の心を揺り動かすような仕事になるのではないかと思われた。そこで、研究における心・技・体とはどのようなものか?思いをめぐらせてみた。心はもちろん研究者の気迫とか意気込みを表している。仮説を証明するために、どこまで実験をして結果を公表するか、常日頃、研究者を悩ませている問題である。早く公表しないと他の研究者に先を越されてしまうかもしれない?ここまでは、明らかにしたいが、もし上手く結果がでなかったらどうしよう?などと思い悩む。しかし、すばらしい研究は、ここまでしたのか?よくやった?と感動を与えてくれるのである。この論文が読者の感動を呼び起こすのは、きっとこの研究者たちが自らの心の中の葛藤に打ち勝ったからではないだろうか。徹底的にあらゆる角度から検討した事実は、真実にかなり近いところに迫っているのである。すなわち研究の場合、心は真とも解釈できるのではないだろうか。

 技(わざ)も重要である。真実に迫るためには、世界で用いられている最新技術を取り入れ、自分の仮説を可能な限り多くの方向から証明することが大切であるように思う。研究者には、常に新しい技術を取り入れる努力が求められている。また、技は単に最新の技術を表しているのではない。シンプルな実験を組み合わせていかに仮説を証明していくか?研究全体の論理を組み立てる方法もまた技であると思う。

 最後に体について考えてみたい。研究における体とは、世界の流れ、すなわち世界の人たちやその分野の人たちが求めているものと思われる。論文を公表する時に、その研究テーマがその分野のエキスパートが求めているものと一致することが望ましいと思われる。しかし、流行をただ追いかけるのでなく、自分の研究が公表可能となる何年後かに、新しい流れとなるような研究を目指すことが肝要に思う。その点で、先見の明が必要であるし、研究がギャンブル的な1面をもっている理由かもしれない。さらに、証明した仮説が後に定説となってくれれば、研究者をやっていてよかったと思える瞬間なのかもしれない。

 すばらしい研究論文に出会ったとき、研究をやっていて本当によかったと思う。また、自らも多くの人に感動をあたえるような心・技・体がそろった研究を目指し、着実に歩んで行きたいと思う。